ご遺骨の位置づけ

通常の生活で「ご遺体」や「ご遺骨」が例えば家にあるという状態は「非常時」であろうと思います。この状態に対する位置づけは、学校では学びませんし、社会に教える場所はお寺くらいしかないと思います。もしくは、葬儀業社さんや墓石やさんも専門分野の方ではありますが、商業ベースでお話することが多いかもしれません。

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人間だけが死を知っている

 宗教的に見てこの疑問や不安を取り除くのは僧侶の使命であろうと思うのです。宗教的と書いたのは人間としてという広い見地であり、自然界に置いて唯一「死」ということの意味を持っているという事を意味します。犬がお墓参りをしてご先祖に畏敬の念(敬い偲ぶ)を以て手を合わせませんし、カラスから見たお墓は美味しい餌の獲得所としか認識できないのではないでしょうか?(お供え物は持ち帰りましょうと奨励します)

いのちとは存在価値

 さて、「ご遺体」ならびに火葬後の「ご遺骨」を論じる前に、「死」という万物が持っている必然という出来事を科学的生物学的には維持できなくなった肉体が当然迎える姿であるという前に、存在価値という大切な視点を持つ必要があると思います。科学的生物学的では固体の消滅となりますが、人間的には宗教的にはそういうわけにはいかないのです。そこにはその方がおられ、たとえ「ご臨終です」と宣言されてもなおもまだ、居てほしい、まだここに居てほしいと願う願いの解決にななりえません。これが存在価値という実態であると思います。

「死」は避けては通れない

 人間はその文字の通り一人では成り立たない事を明かしてあり、人間としてのつながりや過ごしてきた時を離れて生きられません。確かに昨日の私と今日の私では気づくことはあまりないけれど変化し、別の姿になっているのでしょう。その実10年もたてばはっきりと違いが分かります。突然10年たつことは無く一日一日変化した結果が10年30年50年の違いになっています。そして最終的に「死」を迎える事も人間であればこそ知っているのです。が、あまりにも事が大きくそして未経験であり、経験者がいない事からどなたにも不安である事は間違いありません。未経験である不安な事であるので、誰も普段から深く考えていません。唯一「宗教」はこの不安に取り組んだ営みという事がいえます。誰もが避けて遠のけて考えまいとしていますが、確実にその瞬間は本当にやってくるのです。

いきなりお世話役に

 日頃から遠ざけていた「死」がやってきました。まずは家族や知り合いという事になりますね。知らない方の死は他人事ですので知らないで済みますが、家族の死は否応なしにそのお世話役に任命されてしまいます。よっぽどの孤独に生き人以外、誰かの世話を必要とするのです。その時、初めて「ご遺体」や「ご遺骨」という事の立ち位置というか意味合いというか、どのような物であると認識すればよいかを問われます。それもいきなり来ます。

入院中は「死」は禁句

 例えば病気になり入院となり手術なり治療なり、事が進めば重体危篤になりますが、この時点で死後の事を話題にできない特徴があります。「縁起でもない」というか死んでもいないのに「死後」を段取りを話されても困りますし、本人も家族も聞きたくないし、そうなってほしくないから話題になりえない事です。よっぽどご法義の篤い方や「死」を受け入れられる芯の強い方は別ですが。

丁重なるお見送り どこへ?

 いよいよ「死」を迎えた瞬間から矢継ぎ早に葬儀の段取りや通夜・葬儀・火葬といち早く進んでいきます。中には「ご遺体」を自宅に迎えるケースもあることでしょう。昔から「亡骸」(なきがら)という価値判断を持っていましたが、現代社会ではそれすら認識されていません。いのちはこの世から亡くなり、いのちが入っていた器(うつわ)であった暖かさを持った入れ物という認識です。だから、生前の様に大切に扱うべき物柄であると思います。

自分では口出しできない

 だがしかし、生きていた時の様に意思を持ち会話を交わすこともできません。お心を知りえる手立ては生前を察するしかない状態です。臓器移植の意思はこのために生前本人が証することが前提になってきています。亡くなった本人にしても、この命の器をどうしてほしくても、どうにもならない。お任せする以外選択の余地はありません。家族もどうしたらいいか生前から話すことも無く学ぶ事も無い状態で迎えた事態で戸惑います。

火葬後ようやく遺骨の意味を問う

 「ご遺体」とは親しかった方がお使いになっておられたお体です。出来得る限りのお見送りをいたしましょう。でもどこへ見送るのでしょうか?棺桶、今は棺。それとも火葬場?はたまたお墓なのでしょうか?訳も分からずお見送りしても、何をどうやっているか分からない事に成ってはいませんか?そうした場面では専門家を呼んでどうにかこうにかこの場を超えなければならない事になります。
 ここで初めて「死」の専門家であろう葬儀社さんの出番ということになります。いうがままに事が運ばれ晴れてご遺骨になってこれを抱えて自宅に帰ることなり、ようやくこの「ご遺骨」の意味を考える事になります。

ご遺骨は亡き人か

 「ご遺体」の時間は短くそして専門業者さんもありますが、残るのは「ご遺骨」なので、一番の難関は「ご遺骨」の位置づけではないかと思います。あの方が使っておられたお体の一部であることは間違いないでしょう。実際火葬場で焼骨の説明を受けられればなお一層お体であるという認識は高まりましょう。これは足でここは腰、背骨からお顔と説明されれば、理科室の人骨標本で見たとおりになっています。だがしかし、この「ご遺骨」は再び元の人間に戻ることはありません。また何か考えたり思ったりすることもありません。まして遺族を不幸にしたりまた不平不満を言う事もないのです。

99%は「お空」に返した

 亡くなった方はここにはいません。遺骨はたった一つの宿題を持っているだけです。それは大地に還る事、自然界にお戻しすることを待っている状態です。焼骨の重さをネットで引くと平均700gとありました。私は70kg(70,000g)ですからおよそ生きていた体のたったの1%が「ご遺骨」です。残る99%は火葬場で火の力で空という大自然に返しました。残った遺骨は後日、埋葬されこれも自然界に戻るという物であります。体の一部であるから大切な物であるとともに自然界に変える道を辿っている最中である。これが遺骨の位置づけです。あの人はどこへ行ったのでしょう?

亡き人は縁として私の中に

 仏教では輪廻転生を説きます。これについては仏教のコーナーをご参照くださることにして、私たちが身近に感じる事の出来る「亡き人」はどこにいますか。それは思い出という場所にしかいません。遺骨は語る事も思う事もないからです。出会ったご縁という箱の中にいます。あの時こう言ったとか、こんな風にしていたとか伝わったお心を持っている方もありましょう。私たちが認識できる亡き方は私の人生の中にしかいません。過去の出来事というレベルに亡き方はおられます。仏教の言葉では縁や絆という一言で表現します。人としてのつながりはあの方が居なくなっても会う事ができ、夢にまで登場し話までできたりもしますが、それは縁が催すことです。そういう意味ではあの方は亡くなりましたが、つながっており、一緒にいてくれると思うのです。

2度も見送る日本人の奥ゆかしさ

 その象徴が「ご遺骨」ということでありますが、悲しい事にこの「ご遺骨」とも別れねばならないのです。埋葬がそういうことになりますね。火葬でお別れを行い、埋葬でもう一度お別れをする。日本人の今の葬送は2回にも分けて悲しみが一遍に偏らない配慮がなんとも奥ゆかしい人種であると感じます。

お墓が最終執着駅なのか

 そうなりますとお墓は一種特別の場所に聞こえますが、役割は「ご遺骨」を自然界に戻す施設である以上に、故人とつながっていることを確認する場所という意味合いも出てきますが、故人はお墓にいるのでしょうか?ここまで呼んで下さったからなら察しが付くことと思いますが、宗教が無ければお墓が最終終着駅になります。悲しい事です。風雨にさらされ夏の日照りで蒸され、冬の雪に埋もれてしまう場所がお墓です。年に何回かしか訪れてこない家族、ほとんど動くともなく、寂しい静寂な毎日がづっと続く場所が人生の終着駅でしょうか?

いのちの行方を正しく知る

 この疑問に偽らず媚びずに真実を求めているのが宗教です。いのちの行方を真剣に問い、ひいては私のいのちの行き先を聖者、賢者、達者に尋ね、覚り得た人の言葉を頼りに不安な「死」の解決を求めているのが宗教です。この記事を目にした方はどうか頼れる宗教に出会われんことを切に念じます。迷いなき宗教との出会いは人生ではとても希少であることを心得ていただければありがたいです。世界宗教と呼ばれる「仏教」「キリスト教」「イスラム教」は正しい事を述べていると思います。あらゆるいのちの救いを説いているからです。中でも仏教は円教といわれ、かけている部分の無い様子からこう呼ばれます。お話を読んで下さって本当にありがとうございました。

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